画家の半生

<おてんば小学生>

三人姉妹の真ん中で、幼少期から絵を描くのが好きだった。
2歳の時に鉛筆で描いた顔のあるチューリップの絵の切り抜きが、私の2冊目のアルバムに貼ってあるのだが、そうしたくなった母の気持ちがわかる。
幼稚園の時の絵も物置に大量にとってあったが、子どもに絵を教える立場になった今見ても、ちょっとこの子ただものじゃない!と思ってしまう。

名の通り明るい子で、お転婆な学級委員長タイプ。
2年生の健康診断で心臓に雑音があると言われ、保健所で精密検査を受けた。
この時、死を間近に感じ、明日死ぬかもしれない恐怖と初めて対峙して、夜な夜な涙を流したが、運動神経が良く、心臓に穴が空いている人の体力ではないので、様子見となった。

小学2年生で、ノートにマンガを描き始める。
それを教室のロッカーに置いて、みんなに自由に見てもらった。
この時の担任の森下先生は、国語の授業で「スーホの白い馬」の挿絵を私に大きな紙に描かせ、それを授業で使ったりした。
学年末にクラス全員に賞状を渡してくれて、私には「マンガ賞」をくれた。
運動神経がよかった私は「え?体育賞じゃないんだ」と思ったが、体育しか出来ない子がそれだったし、私の才能は絵なんだと、その時自覚した。
未だに付き合いのあるこの先生は、私の恩人と言っていい。

3年生からストーリー少女漫画を描き始め、5年生でペン入り原稿を描いていた。
主人公は大抵、仲の悪い妹とオニババのような母親がいる設定w
マンガの中で私はヒプノをやっていたと思う。
周りに理解されない現実を、マンガの中では希望通りに展開させるのだ。

器械体操、陸上、ミニバスケ、自転車という特設クラブに入りながら、算盤とピアノを習う忙しい小学生。朝練のため一人で起きて朝食を食べて登校する。
勉強はほとんどしなかったがよく出来た。
5年生の終わり頃の児童会長選挙で、クラスの推薦でなぜか立候補者となる。
「投票しないで」と演説してドン引きされ、ほかのガチ秀才候補にもちろん敗れたが、私は校舎中に貼られるポスターを描きたかっただけだった。

小学校6年で、人生について考えるようになる。
この考察を全部書き出して、ノート一冊分の論文のようなものを書いた。
それは、高校生でデカダンスに嵌った時にビリビリに破いてしまって残っていないが、何があろうと精一杯生きようという結論だったと思う。
それは小学校卒業文集で詩として書いた。早熟な子どもだった。

<センシティブ中学生>

中学ではバスケ部に入った。
イケメンの先輩に夢中になり、妄想マンガを描いていた。
心臓のせいか持久力がなくて試合では使ってもらえず、背番号が9番から18番(一番ビリ)になった時が、それまで優等生でやってきた私の最初の挫折だった。
顧問の女教師は厳しくて、しょっちゅうビンタされたが、ある日、転がったルーズボールを途中で諦めて取りに行かなかった時、身体が吹っ飛ぶほど殴られた。
これは、私の課題の象徴的な出来事だった。
「諦めんな!」
これを教えてくれた顧問の先生には、今は感謝しかない。

部活で自信を失った私はマンガに熱中し、中二の夏休み、りぼんに初投稿した作品が努力賞を受賞した。
そっとマンガスクールのページを開いて、目を疑って、バンっ!と閉じた瞬間を今でも憶えている。喜びと同時に戸惑いの方が大きかった。

ツッパリブームの当時、クラスではイジメが横行し始めていた。
ある日、教室に貼られた林間学校の集合写真の複数の顔に画鋲で刺した跡があった。
その刺された10人ほどの中に、なんと私が入っていたのだ。
いじめられっ子以外では唯一だった。今思えば犯人のジェラシーだろう。
しかし、まるでその画鋲が私の心臓をグサリと刺したかのように、大きな傷を私の心に残した。
そして私は段々と生まれ持った快活さを失い、漫画に没頭していった。

中2中3の担任は、東北訛りの強い新卒の男性・橋本先生だった。
元来大人しい人だったので生徒からは舐められ対立するようになった。
私は純朴な先生を嫌いではなかった。
ある日のホームルームで、生徒から頼りない先生への不満で紛糾した。
私はボロボロ涙をこぼして挙手をし、先生の弁護に立った。
「先生だって頑張ってる!みんな自分のことしか考えてない!」と弁を振るった。
その時の先生の「…ありがとう」は今も耳に残っている。
解散後、「なんだよ、いい子ぶってよう」とクラス全体を敵に回した空気の中、地味なUちゃんが「あっこちゃんカッコよかった」と言った。
それ以降、派手グループを抜けて、地味グループに異動することとなったが、このことを私は全然後悔していない。

そんな中2の冬、2作目の漫画が努力賞を受賞。得点も前作を上回った。
3ヶ月に一度、受賞者の中からデビューが決まるのだが、たまたまその回では一番高得点だったためデビューが決まった。14歳9ヶ月の最年少デビューだった。
このことは、家族と橋本先生と親友にしか話さなかった。
自慢と受け取られたくなかったのと、分不相応だという自覚と、わずか3ヶ月前の自分の作品が未熟に思えた恥ずかしさだ。
ところが、編集部からの知らせを受けた直後に、母が幼馴染みの家にすっ飛んでって自慢したため、そこから全校に知れ渡ることになる。

母親のこの幼児性にはホトホト嫌気がさしていた。私の唯一の障壁だった。
父とは大の仲良しで、悩みもよく相談したが、毎度「大いに悩め悩め!」と励まされた。

中3から少しずつクラスも仲良く楽しくなり、聴く音楽もオフコースからRCサクセションに変わり、ブリティッシュロックと本田恭章にハマる。

<ロックな漫画家高校生>

自転車で通える県立の進学校に入ると、高校デビューと言ってもいいくらい、自由な校風に生き生きとし、ロックな高校生漫画家生活。
時代はバブル期。
憧れの漫画家さんや編集部との関わりなど、楽しく刺激的だった。
中でも小椋冬美先生と渋谷公会堂の本田恭章のコンサートに行って、原宿のカフェでおしゃべりしたことは一番の思い出だ。

そんな高1の夏休みに、テレビで日比谷野音のジャパメタイベントのライブを観て衝撃を受ける。
44マグナム、浜田麻里、アースシェイカー。
衝撃すぎて親友に電話して、バンドやろうぜ!ってw
ベース志望だったが友人がベースを譲らず、空席だったボーカルをやる羽目になる。
なぜかそれが好評で、クールなロック姉ちゃんが板についてきた。

都内のライブハウスに通うようになり、その頃柏にわんさかいたロック兄ちゃんたちと知り合って、デビュー前のXの打ち上げやら、たけしの元気が出るテレビの運動会(ヘビメタチームの応援)観に行ったり、そりゃもう楽しかった。
大好きなミュージシャンに手を出されたり!(青い思い出💙)

その頃、上村松園を描いた映画「序の舞」を観て、日本画をやりたい、家を出て京都の美大に行きたいと思うようになった。
デッサン教室で基礎を学び、高三で美大受験の予備校に通った。
全部自分の稼ぎ(原稿料)だった。
なので浪人は出来ない。現役で合格できる短大を選び、無事合格。

<雅なロック美大生〜就職>

京都での一人暮らしが始まった。
父に仕送りは2〜3万円でいいと言ったが、気の毒だからと5万円出してくれた。
寮費15000円と生活費、足りない時は学生相談所で探した日雇いバイトをした。
その求人の中に、東映太秦映画村の似顔絵描きがあった。
秋の繁忙期だけの予定だったが、事務所の社員さんより上手かったため、引き続き描くことになる。
まさかそれがライフワークになるとは思ってもいなかった。

風呂無しアパートに引っ越して、喫茶店、帯の錦糸工房、ゲーセン、そして似顔絵と、多くのバイトをしながら、週一の頻度で大阪や京都のライブハウスに通うロックな美大生。
バブル期の就活は選び放題で、一番怪しげな呉服屋の手描き友禅の仕事を選んだ。
日本画の制作は働きながら出来る!と専攻科には進まず、大作の搬出入がしやすい平屋の借家を借りることにして、短期間で敷金礼金を稼ぐために、祇園のスナックでもバイト。
卒業制作の最中、バイト三つ掛け持ちなんてよくやったよ。

西京極の被差別地域の借家は、家賃45000円。
見習い期間の時給500円、手取り10万。それでもちゃんとやっていけた。
週4日ペースでおっちゃん達と飲みに行き、語らった。めっちゃ楽しかったな。

そのうちの一人との恋愛をこじらせたことと、制作がままならなかったこともあり、一年半で会社を辞めた。
雇用保険をもらいながら制作をし、短期バイトで食い繋いだ。

<京の都の似顔絵師>

日曜日だけ続けていた似顔絵のアルバイト社員として、週4〜5で働くようになった。
太秦映画村だけでなく、枚方パークや大阪十三の事務所の勤務、そして各地の似顔絵イベントで出張に行った。交通費や宿泊費も出て、タダで全国旅行できたようなもの。
バブルだったからできたことだなあ。

しかし、給料のことで社長に物申したことで大喧嘩となり、クビになった。
映画村似顔絵館では、何人も並んでいる絵描きの後ろから描いている様子が見られるようになっていて、希望の絵描きのところに並ぶシステムだったのだが、私のところだけに行列ができてしまう状況が続いていた。
そうすると全体の売り上げが落ちてしまう。
辞めた方が会社のためだし、フリーになる良いきっかけだった。

そして独立した先輩の仕事で、琵琶湖遊覧船や生駒山、各種イベントで描くようになり、平日は近所で短期バイトを転々としていた。

仕事はなんでもいい。
日本画を描くことが私の本分だと思っていたから。
2〜3ヶ月かけて描いた大作を公募展に出しては落ちたが、自分の力量ではまだまだなのはわかっていた。

お歳暮お中元の配達所で事務のバイトをしていた時に、配達員をしていた学生バイトのSくんと付き合うようになり、いつしか一緒に住むようになった。
ゲームソフト製作会社のバイトもした。出たばかりのマッキントッシュをいじった。

私は似顔絵の個人事務所を立ち上げ、京都タワーに営業をかけた。
ゴールデンウィークのお試し期間が好評だったため、テナント営業の許可がおりて、25歳で晴れて店の主となった。

彼が卒業したら地元の愛知に帰ることは最初からわかっていた。
色んな占いで彼とのことを鑑定してもらう日々。
そして阪神大震災が起きた。
震度6強のベッドで土壁の粉が降る中で、一瞬にして死を覚悟した。
後悔したくない。後悔しない生き方をしようと心に決めた。

同棲して3年、私は描き溜めた作品を曝け出すことで何かの区切りにしたくて、初めての個展を開いた。
そうして京都と愛知の遠距離恋愛が始まった。
そんな中オウム事件が起こり、私は不安で寂しくてたまらず、彼の実家に泊まり込んだ。
どうしても彼と結婚したかった私は、京都の全てを捨てて愛知に引っ越すことを決めた。

<追いかけて愛知>

知多市と名古屋に友人がいたし、似顔絵のイベントも東海地域で展開できたし、デパートの服売り場のバイトも楽しかったし、彼の両親にも嫁みたいに受け入れられたし、全ては順調だと思っていた。
だが、彼は違った。
結婚に向かって外堀から埋められていく感じが、社会人一年目の彼にはおそらく耐えられなかったんだろう。
営業先に中学の時の元カノがいた、という話は聞いていたのだが、まさかその女に彼を取られるとは思ってもみなかった。

突然切り出された別れの展開に私はついていけなかった。悲しすぎて泣けない。
一週間ほど何も食べられなかった。
体重計が36kgを指したのを見た時、自分が可哀想になって初めて号泣した。
そして両親の勧めもあり、実家に療養に帰ることを決めた。

ここが私の人生の最大のターニングポイントだ。
自己嫌悪のどん底に喘ぎ、ことの顛末を書き出して自分と向き合った。
血反吐を吐くような3ヶ月だった。

もう大丈夫な気がして、似顔絵の仕事のきっかけで愛知に戻った。
アパートに電気がついてるのを見た彼がやってきた時、復縁できると思ったが、そうはいかなかった。
覆水盆に返らず、を痛感することになる。
彼の母親が、手切れ金を持ってやってきたのだ。
これを受け取ったら完全に終わる。泣きながら抵抗したが押し切られた。
彼もパッタリと来なくなり、不本意に終止符が打たれた。

その時の全てを作品に描こうと思った。
お金はないので、ベニヤと角材でパネルを自作し、和紙でなく木綿を張った。
泣くことさえできなかった絶望と、そこから筆を持って光に向かう自分。
岩絵具がなくなって完成はできなかったが、今でも大事な作品だ。
この頃の制作は、吐き出さずにはいられない感情を吐露する行為だった。
でもそのおかげで次に進むことができる。

そして気づいたのは、彼は自分のために私に絵を諦めさせたくなかった一面もあったということ。

逃げたといえばそうだが、優しさでもあったと気づき、号泣した。

お金が尽きて、自動車部品の工場でバイトを始めた。
大きな機械の前で手だけ動かしていれば、脳内はフリーだ。
好きなだけ思索に耽ることができるので案外楽しかった。

その工場のバイトのパンクロッカー、7つ下のIくんと仲良くなった。
二人で飲みに行ったら、事故みたいに付き合うことになってしまった。
それから間も無く、猫を飼っていたことが不動産屋にバレて、私は柏に戻ることになるが、別れた彼とできなかった遠距離恋愛に挑戦したかったのだと思う。

<ただいま!柏>

9年ぶりに柏に戻って驚いたのは、柏が面白い街に変わっていたこと。
おそらく、その後親しくなる画材屋の社長である街のボスのプロデュース力だと思う。
その画材屋は、小学生の時にマンガのペン先やスクリーントーンを買いに行ったり、高校時代にデッサン教室に通った、私にとっては思い入れのあるお店。
その店頭で似顔絵を描かせて欲しいと掛け合ったが門前払いだった。

ある日、最寄りの南柏駅前の住宅展示場のイベントで、似顔絵コーナーがあった。
その絵師に私も似顔絵師だと言うと、後日事務所の人と面接して外注の絵師として採用してくれた。
また時々フリーマーケットで似顔絵を出店していた中で、ウェディング企画会社の目に留まり、茨城県内のウェディングの似顔絵ウェルカムボードの仕事をすることになった。
またご縁があって、新聞の挿絵の仕事、静岡のお茶の郷博物館の壁画の仕事を手がけた。

遠方で大荷物を運ぶのにやっぱり車が必要だと痛感し、妹と教習所に通った。
平日のバイトは、妹がやっていた新松戸のダイエーの駐車場。
子供の時は嫌いだった妹が親友になった。
妹は、私がSくんと別れたあと、対照的にラブラブで結婚したが、旦那の本気の浮気により離婚して、実家に帰ってきた。

Iくんとの遠距離恋愛は2年ほど頑張ったが、好きというより同情だったし、Iくんの浮気グセは直らず、すったもんだの末、なんと私の妹が彼の子を妊娠して終了!
まさに事実は小説より奇なり。

父の大激怒を買った妹は、逃げるように岡崎へ嫁に行った。
産まれた女の子は、ビックリするほど私に似ていた。妹と私は似てないので隔世遺伝だ。
私と彼の組み合わせでは宿れなかった魂が、妹のお腹を借りたように思えた。
その子を連れて帰省すると、孫はカスガイって感じで父は妹を許していた。

その頃、愛知県で似顔絵の仕事があり、意を決して5年ぶりにSくんに会うことにした。
再会を喜んでくれた彼は、結婚したばかりだった。私はそれを聞きたかったのだ。
帰りの車で「ふってくれてありがとう」と言うと、彼は運転しながら私を見つめた。
私は、その凛としていただろう横顔を見せられただけで満足だった。

ウェルカムボードの仕事が忙しくなったこともあるが、実家に戻ってから日本画の画材はしまいっぱなしになってしまった。
というか、日本画を描く心持ちになれなかったと言っていい。
京都の風土と制作はリンクしていて、実家ではそのモードにならなかった。

ダイエー駐車場が自動化になり、新しいバイトを探していたら、箱貸しのボックスギャラリーがオープンしてスタッフとなった。
手作りの品々を扱っていて、私もポストカードや絵を出していた。
そこで絵画教室の講師もすることになったが、2年で店は潰れた。

<遅すぎた青春>

そのすぐ近くに大きな倉庫を改造したスペース貸しのお店がオープンした。
オーナーのミュージシャンや画家と仲良くなって、そこのギャラリーで10年ぶりとなる水彩画の個展を開いた。

そこに芋づる式にクリエイターが集まり、最大60人ほどが、毎週のように持ち寄りでパーティーをしたり、バンドを組んで防音スペースでライブをやったり、絵描き仲間でクロッキー会をやったり、30代後半で遅すぎる青春の日々を過ごす。
遊んでばかりもいられなくて、絵画教室もそこで再開し、姉の旦那が自営でやっている住宅建材補修の手伝いをしたり、テレアポのバイトもした。

絵描きとミュージシャンで自然発生的に始まったライブペインティングショーは、2ヶ月に一度、入場料を取って開かれ、その副代表としてイベントの運営を任された。

柏の街づくりのボスと仲良くなり、念願だった画材屋前の似顔絵のテナントを、逆に依頼される形で、毎週土曜日に出店することになった。
そして、ちょうど時を同じくして始まった「アートラインかしわ」の運営にも携わるようになった。
街なかの路上で、音楽に合わせて30人が30号のキャンバスに絵を描くライブペインティングは、私たちの活動から生まれたものだった。

その頃、クリエイター仲間から紹介された仕事が、オープンしたての柏の中華料理屋に龍の天井画を描いてほしいというものだった。
気軽に引き受けたが、手を上に向けて描くという行為は思ったよりキツく、血が下がってしまって手に力が入らなくなるし、首を上に向け続けるには首の筋力が要るのだ。
それも日に日に慣れて、2週間ほどで完成した。
数年で店は無くなってしまったが、私の描いた龍はとても好評だった。

卒業した美大の東京事務所が日本橋にあり、同窓会に東京在住の友人たちと出席した。
持参したポートフォリオにはもちろん天井画のことも載せておいた。

<ヒャッホー!一人暮らし>

クリエイターの溜まり場は、経営陣が代わり絵画教室ができなくなった。
じゃあ自宅でやればいいんだ!と、実家を出てアパートを借りることにした。
久しぶりの一人暮らしは、好きなものに囲まれて天国だった。
8畳のダイニングで週二回の絵画教室、6畳のベッドルームと6畳のアトリエ。

心機一転と同時に、日本橋の母校の東京事務所から新たな話が舞い込んだ。
日本橋の老舗のシャッターに浮世絵を描く人を探しているが誰かいないかと、日本橋巡りの会からオファーがあり、天井画を手掛けた日本橋生まれの私を憶えていてくれて、連絡をくださったのだ。
日本橋の為ならと、即決でお引き受けした。

当初は東海道五十三次を順番に巡るというアイディアだったが、最初に手掛けた京橋の刃物屋さんが選んだのは、五十三次ラストの京都だった。
私が編み出した下絵を転写する方法は、原画の拡大コピーをポスターモードで拡大コピーして、200枚ほどをテープで貼り合わせ、トレース台で裏を6Bでなぞり、シャッターの凸部分に擦って転写して、凹んだ部分を手描きで繋げるという作業。
1日で出来ると思っていた転写と下描きだけで4日かかった。
何事もやってみないとわからないもんだ。

作業は閉店後から朝まで、ペンキの乾燥の時間を差し引くと夜明けまで。
1週間もありゃできるでしょと安易に予想して、3週間後の個展を控えて余裕で終わるつもりでいたがとんでもなかった。
お店の配慮で出入り口を横の引き戸だけにしてくれたお蔭で、1日15時間、それでも結局15日間かかった。
アパートにはシャワー浴びて寝に帰るだけ。
これでギャラ10万円。もう二度とやらねーって思った。

が、これが好評すぎて、テレビや新聞に取り上げられて、次々に先が決まって、辞めるに辞められなくなってしまった。
ギャラは20万にしてもらったが、39才には体力的に厳しかった。
後輩を作ってくれとお願いして、私は4店舗目で引退すると決めた。
芸大の卒業生と学生の3チーム10人の後輩が出来たので安心したのも束の間、大好評につき、都と区から補助金が出ることとなり、ギャラが100万に跳ね上がった。

え?なによ、パイオニアの私が20万で大学生が100万⁈おいおい、そりゃねえわ!
ということで、5作目6作目が決まってしまう(涙)。
最後の浮世絵は、国芳の超細密な秘蔵作品で、完成に4ヶ月を要した。

そもそもこの「シャッターチャンスプロジェクト」は、江戸時代の浮世絵師を支える旦那衆たちのパトロン文化を、現代のアーティストを支える老舗、という構図で甦らせようという趣旨で始まり、実際私は、日々街の人たちに愛される若手画家を体現していた。
似顔絵描きの私向けに、社長さんが次の社長さんに似顔絵をプレゼントする似顔絵リレーという企画で、私を可愛がってくれる人たちを作ってくれた。
小津和紙ギャラリーで開催してくれた2008年の個展では、その似顔絵30点と、私のアクリル画作品4点を展示させてもらった。

同時に、銀座の画商と若手画家の接点を持つという目的もあった。
シャッター10人衆のグループ展で、芸大日本画の後輩に負けじと日本画に復帰した。
実に10年ぶりに、膠を溶いて岩絵具に触った。
その時に描いた大作80号はのちに公募展で入選を果たした。
月に一度、老舗社長と画家、そして銀座の画廊が出席する食事会にお呼ばれした。
その中で隣に座らせてもらった女性副社長こそが、現在お世話になってる銀座柳画廊。
まさにシャッターチャンスプロジェクトの目的すべてを果たした、唯一の成功例がこの私なのだ。

この日本橋シャッター画製作は、ペンキを使った摸写であり、日本画とはほぼ関係がなく、単純にプロデュースに乗っかっただけの話。
プライドの高い芸大生なら積極的に引き受けることはない。
三流美大出身ならではのプライドの無さは、ある意味わたしの利点でもある。

快適だったアパート暮らしは四年経ったある日、階下に引っ越してきたヤクザによって、突然耐え難いものになった。
内縁の妻と舎弟たちの喚き声に、警察に苦情を入れまくるその隣人。
その苦情が私によるものだと早合点したヤクザの恫喝。
うるさくて制作もままならず、家に居たくなくて、日曜日にもイオンで似顔絵テナントを始めた。

なんとなく回ってたお金が気づいたら減ってきて、いよいよ家賃払えない、どうしようってなった時、父に家に戻っていいかと訊いてみた。
「人生辛いことはあるもんだ。もうちょっと頑張ってみろ」と言われたが、落ち着いて制作ができる環境こそが何より大切なんだと説得して了承を得た。

<再起のアトリエで>

実家に快適な制作環境を整えるため、私の部屋のクローゼットをぶち抜いて隣りの部屋と繋げる工事を、知り合いの大工さんにお願いした。
タイル型カーペットをカットして敷き詰めたり、窓の外のフラワーポーチに筆洗用の水道を引いてもらったり、好きなようにカスタマイズした。

三度目の日本橋企画の5人展を見にきてくれた銀座柳画廊の副社長が作品を買ってくれて、納品に行ったら、あれよあれよという間に1号四万円の取り扱い作家となることが決まり、二人で香港アートフェアに行くことになって、その場で航空チケットとホテルを取るという男前さを目の当たりにして、目眩のするような展開にただ驚くばかり。

直後に東日本大震災があった。
阪神の時と同じ震度6強を体験した。
本当に生きているだけで有難いし、世の中の価値観の全てが転換した。
放射能の雨が降った柏も、最新の炉を持つ清掃工場の焼却灰の値が飛び抜けていたせいで、とんだ風評被害を受けたが、市民みんなで頑張って乗り越えた。

私自身も無理が祟ったのか、身体に異変が起きていた。
食べても食べても痩せていくのだ。ピーク時には1日6食食べてもお腹が空いていた。
そして手が震えて、日本画の命とも言うべき骨描きを面相筆で描けなくなり、仕方なく細いシャープペンで描くようになった。
動悸と鼓動が激しく、汗が半端なく、すぐ疲れて階段が登れない。
そして朝まで眠れない。気づくと気絶したように寝てて起きられない。

ある日、鏡を見ていたら、喉が腫れていることに気づいた。
数年前にバセドウ病を発症した妹と同じ喉。ネットで調べたら症状がドンピシャだ。
内分泌科の病院に行くと「典型的なバセドウ。進行具合から見て4年近く前から始まってるね」と医師。
遺伝もあるけども、原因は過度なストレス。間違いなく日本橋シャッターでしょう!
描いても描いても終わらない、縦一本の線を描くのに8時間(1日)、そんなストレス満載の昼夜逆転生活を2年半続けてりゃあね。

即、投薬治療が始まった。
アクセル踏みっぱなし状態の身体に急ブレーキをかけるようなものなので、今度は橋本病の症状が現れる。
1日何十回も身体が攣って(時には同時に何ヶ所も)悶絶する。

バセドウ病患者の性質として、頑張りすぎる性格があるそうだ。
身体の悲鳴を無視して、精神力だけでキャタピラの如く動いてしまう。
ある日、湯船につかりながら痩せ細った自分の身体を抱きしめて号泣した。
「身体さん、ごめんねごめんね。これからは身体の言いなりになるよ」
そしてもう二度と、やりたくない事はやらないと決めた。

<両方できる人>

アートライン柏では、2012年から展示の企画を任された。
それが共晶点だ。
ボスには「両方できる人」と言われ、可愛がられた。
画材屋としてアクの強い昭和の画家たちと多く関わってきた人だから、自分の表現をしつつ、みんなの調整をする私は珍しい存在らしい。

柏を愛するあまり、柏レイソルにどハマりした。
2010年J2優勝、2011年J1優勝、2012年天皇杯優勝、2013年ナビスコ優勝。
そしてアジアチャンピオンズリーグ。
選手の似顔絵も勝手に描いて、アイコンに使ってくれたりしてそこそこ話題となる。

画業では、柳画廊に常設展示していた私の作品を見た某画廊の社長から、企画展出展のオファーがあった。
この社長は日本橋の会合で面識があり、思想や趣味がドンピシャでファンだったし、現代の美人画ブームの魁たるこの画廊からのオファーは本当に嬉しかった。
売れっ子作家さんに混じり、目の肥えた顧客が作品を買ってくれた。
半年後の2回目の企画展でも売れたので、両方の画廊でうまいことやって行きたいと願っていたが、柳画廊の社長はいい顔をしなかった。
画廊同士が気まずくなってしまい、某画廊の扱いはフェードアウトしてしまった。
まるで、告られた同級生と付き合ってから、憧れの先輩からデートに誘われて有頂天になってたら、しばらくしてフラれることもないまま終わって、同級生に戻る、みたいな。
でも、そこで出会った多くのお客さんをファンにできたことは大きな収穫だったし、その画廊で出展したことは誇れるポイントにもなった。

その関係者の男性と付き合ってたが、まさかの何股だかわからないクズ男だった。
いい加減、自分の見る目の無さに呆れて、もう男はいらん!と思った。

一方で、生業としての似顔絵と、1号四万の日本画家としての両立が難しくなった。
画廊社長からは前から言われて無視してきたが、この彼にも言われたことで、いよいよ決断の時が来た。
収入があてにならない画家業に、安定収入がなくなる不安のためにそれまで辞める決断ができずにいたが、似顔絵を応援してくれた父に相談すると「おう、退路を絶って頑張れ!」と背中を押してくれた。

<父>

そんな中、最大の理解者である父の癌が発覚した。
胃の中にニョキっとキノコの様な悪性腫瘍が生えていた。
昔から「俺は78で死ぬ」と言っていたが、前の年に「やっぱり80に延期するわ」と変更したばかり。何もしなければ78で死ぬが、延期したってことは手術するんだねと言って、胃の3/4を切除した。
抗がん剤は辛くて1クールで止めてしまったが、生き生きと、美味しそうに食べ、楽しそうに終活している父を見て、生きられる期限がわかる癌って病も悪くないなと思った。

死期が近づき自宅で看取ることを決め、訪問診療に切り替えた。
介護は最後の3週間ほど、三姉妹で世話をし、やり切ったので一片の悔いもなかった。
父の母親は、父が5歳のときに線路に飛び込んで亡くなったが、その命日に俺は死ぬと言っていた、その翌日の80歳の誕生日から6日後、全員に見守られながら逝った。
霊体が抜けた瞬間、微笑んだ父の顔を間近で見ていて、感動で泣いていた。
Good Death!こんなふうに死にたいと思った。

父が書き残してくれた、死後の手続きリスト通りに全てを終えたあと、ふっと「個展やりたい!」と思った。

柳画廊では私はペーペー過ぎて無理だから、貸し画廊を回ってみようと銀座に出かけた。
ちょうど柳画廊に用事があって立ち寄り、副社長にその話をしていたら「ダメ元で社長に訊いてみるね」と言われた。
帰ろうとしたら、そこへ出かけていた社長が予定より早く帰ってきた。
副社長がさっそく話してくれたところ、あっさり「いいよ」だって。
「えっ?いいの⁈」と副社長が一番ビックリしていた。

私は、このミラクル、ぜったい父だ!と思った。

かくして2016年6月、初の銀座柳画廊の個展が開かれた。
父の一周忌に画集を仏前に備えて、感謝で咽び泣いた。
亡くなる前に「なんの心残りもないが、あっこの画業の成功だけが俺の望みだ」と言っていたので、その応援と愛をヒシヒシと感じ、守護霊としてそばにいる安心感があった。
初の副社長プロデュース作家、柳画廊で唯一の日本画家として、作品はそこそこ売れた。
初個展にしては成功と言って良く、2年後に次回が決まった。

<再びの京都>

柳画廊の社長は、所属する日本ビジネス協会の部会でお能を習っていた。
その能楽師さんが京都に自社ビルを建てるので、能舞台の松を描かないかとのオファーがあった。
自分のとこの画家に描かせたと言いたいだけなのが透けて見えたので、「やりません」と即答したが、社長はしつこく何度も誘ってくる。
ネットでその能楽師さんを調べて、そのお顔を初めて見た時、既視感と懐かしさを感じ、過去世で縁があったと直感した。
やっぱりやりますと社長に言うと大変喜ばれた。

何人かの画家の候補がいたそうで、板に松のサンプルを描いた。
2つ上の能楽師の先生と、出資者で叔父様であるビジネス協会の会長との面談を兼ねたお食事の席で、先生が「建築家、工務店社長も年齢が近い。僕たちの世代で日本文化の拠点を作りたい」とおっしゃったのを聞いて、それならぜひ協力させて頂こうと思った。
あとで、先生と会長が私に決めた理由が、日本橋シャッターの実績が決め手だったと聞いて、キツい仕事だったけどやってよかったんだなと思った。

柏の共晶点の制作と共に、鏡板の先生の希望に沿う図案と下絵製作、現場監督とのやり取りと諸々の準備をして、共晶点が終わってすぐに、20年ぶりの京都生活が始まった。
会長がマンスリーマンションを借りてくれて、最高級の岩絵具と純金を使って欲しいということで材料費も出してくれた。

現場は絶賛工事中で、能舞台もまだまだ出来ていないので、4階の居住スペースが製作場所となった。
現場監督が好みのタイプで気が合うし、紅一点の現場は超楽しかった。
隣りにショッピングモールがあって、食事やトイレ、買い物も何不自由なく、通勤も地下鉄で10分、快適な生活だった。
恩師や友人と会ったり、御所や嵐山への取材など、久々の京都生活を満喫した。

当初1ヶ月半の予定だったが、予想×1.5倍の法則で、結局2ヶ月半かかった。
杉板に描くのは初めてで失敗もあったが一生懸命描いた。
恩師にダメ出しされて改善しながら、満足のいく出来となった。
能楽師の先生には大変喜ばれ、ご縁の深いだろう多くの人間関係ができた。
画廊とはまたギャラなどで揉めたが、分かり合えない人達なのだと諦めた。

そして、もう二度とないと思っていた最後の恋が始まった。

<もののあはれ>

能舞台のお披露目公演が3ヶ月後に行われた。
先生の盟友の野村萬斎さんも来られ、セレブが集うパーティーで建築家と工務店社長とともにスピーチも行い、個展の宣伝をして、多くのお金持ちのファンを獲得できた。

彼との恋愛も至上の幸せと苦しみを味わい、あらゆる感情は作品への糧となった。
日本人が持つ独特の感性は「もののあはれ」だと思った。
これを個展のテーマとして、自分のすべてを肯定することと制作が一致した。

そうして描いた作品たちは、それまでの「こうあるべき」の無い新境地を開いた。
共晶点の直後に個展というハードスケジュールをやってのけ、個展は大成功に終わった。

個展に来てくれた彼と最後の夜を過ごし、辛い苦しい別れをした。

アートコレクターという美術雑誌に掲載されたり、大阪での選抜展に出展して頂いたりしたが、頚椎症で首を固定する羽目になり、制作もできなくなった。
インフル?からの副鼻腔炎でも寝込む。
体調不良が続いて、精神的にも落ちるところまで落ちたが、逆らわずとにかく休んだ。
春の訪れとともに、花を描いてるうちにだんだん元気を取り戻した。

<蒼天>

恩師が主宰する大作限定の公募展に出さないかとずっと誘われていた。
5m以上の作品を描くスペースも材料を買うお金もないし、何より応募年齢45才を超えているので断ってきたが、年齢枠は関係あらへんという恩師の言葉で、奮起して応募することを決めた。
これが入選しなかったら私は画家を諦めようというつもりで勝負をかけた。

毎年描いている、聖地・日立台の桜を描こうと思った。
スケッチしている時、風に舞う花びらを仰ぎ見ながら涙が出ていた。
「ああ、生きている」って思うのだ。人生はなんて美しいんだろうと。

大型パネルを買うお金はないので、ベニヤ5枚に角材をつけて作ろうと思い、知り合いの大工さんにお願いして安く作ってもらった。
自宅の6畳のアトリエで真っ青な画面を作ろうと、塗料用スプレーで有害な蛍光ブルーの顔料を吹いたら、家中に青い粉を撒き散らしてしまった。

これは制作場所を借りないと無理!と思い、知人が貸家を持て余しているのを思い出して電話し、その日のうちに決めてしまった。
車で7分の貸家を無償で貸してくれた。電気と水道は実費。

ちょうどその時、柏のボスから電話があり、柏市民ギャラリーで8月に企画展をやってくれないかと打診があった。
この大作の写真審査の締切直前。撮影場所としてピッタリ!という理由でお受けした。
共晶点より上の世代の柏の作家展にしたいと思った。

エアコンのないアトリエで、水筒を4本持っていっても全部汗で出てしまう。
それでも、お隣の家主さんが涼しいお部屋で手作りアイスなどご馳走になっておしゃべりして、娘のように可愛がってくれて、本当に楽しい3ヶ月だった。
搬入前、徹夜で頑張ったが作品は完成できなかった。

柏融展と題した展示が終わり、家で応募までの二週間、頑張ってなんとか形にした。
友人のカメラマンに撮影に来てもらい、パネル一枚ずつ撮影し、パソコンで繋げた写真を期限ギリギリで送った。
応募要項の年齢をわざと空欄にしておいたら事務局から電話があり、正直に「先生から年齢は関係ないと言われた」と言うと、それは先生個人の見解で、一次審査が通っても応募資格がないので入選はないと言われた。
結果、一次審査で落選。

正直、一次は通ると思っていたので、相当へこんだ。
まあでも、この機会がなければここまでの大作を描こうとも思わなかったわけで、挑戦したことに意義があったし、落ちた事でこの作品は手元に残る。
ちゃんと完成させて秋の共晶点に展示しようと思った。
後で聞いたが、やはり年齢で落とされたとの事で、恩師が謝ってくれた。

そして、無理が祟ってバセドウ病が再発した。
描いても描いても終わらないというストレス。
絵を描くことは、この上ない喜びであると同時に、苦悩でもあるという証左だ。

<母>

共晶点の直前、柳画廊25周年展に出す作品の納期が翌日に迫り、制作に追われていた日、母が近所で歩いていて自転車との事故に遭い、左手首を骨折した。
心配より「なんで今日⁈」と怒る私。
夕方で病院は救急しかあいていない。レントゲンと応急処置を受け、3日後に整形外科で金具で固定する手術。
制作MAX状態で、家事と母の世話をする羽目になり、だんだん足まで覚束なくなる母に、私はイライラするばかり。

共晶点では、蒼天を展示して大盛況だった。
その一方、材料費と欠勤のおかげで、私は経済的に困窮していた。
絵画教室の雇われ講師だけでは賄いきれず、経験のある補修屋のバイトを始めた。
義兄の手伝いは車で行けたが都市部は電車必須。早朝に出て大荷物を持って現場に入る。
週2回の仕事を3週間続けたが、重度のギックリ腰になり退職。

母は日に日に足が浮腫んで不自由になり、頭までボケてきて、脳神経外科など病院を何軒も連れ回したが原因がわからない。
介護認定が下りる前に階段を転げ落ちそうだったので、家中の手すりを自力でつけた。

事故から5ヶ月後に受けた検査で、異常な数値が出ていた。医師にも原因がわからない。
私はネットで調べまくり、どうやら膠原病の疑いがあると思い、その検査を進言した。
すると案の定、膠原病の一種、顕微鏡性多発血管炎という毛細血管の炎症の難病だった。
投薬治療だが入院が必要で、コロナ禍が始まった2020年春に入院となった。

入院手続きのあと病室に入れず、家族も面会が出来ないと知った。
いやいや聞いてねーよ!とゴネて病室に入ると、母が泣きながら私の手を握り「長の別れみたい」と言うので、涙を堪えるので必死だった。
帰宅して、号泣した。
大っ嫌いな母親。でももし、これで病院で何かあって会えずに死んだとしたら、私は悔やんでも悔やみきれないだろう。
もっと優しくしてあげればよかった。父の遺言で母のことを頼まれたのに果たせずに。
長年母を許す事ができずにきたが、この時やっと母への拒絶が解けた瞬間だった。

入院中、家の断捨離とベッドなどの介護用品を揃えた。
1ヶ月後、退院した母はすっかり足腰が弱り、要介護2となった。
歩く時には手を引くようになった。それまでにはそんなことは鳥肌モノだったが、あの病室での悔恨は忘れない。
以前私は、母の憎まれ口に「いっそボケてしまえば優しくしてやるよ」と毒を吐いたことがあるが、それが現実となったのだ。

それからは家事や家計の管理をし、私は母の父親代わりとなった。

<かしごころ>

2021年春の個展に向け、怒涛の制作が始まった。
蒼天をメインに、生きることの悦び、生命の煌めきを表現した。
和の心と書いて、かしごころと訓む。
日本に生まれた幸運を日本人が得心すること、一切を和合する日本精神の発露こそ、世界の平和の礎となるという思いを発信したかった。

その頃に、文太ママと彩加さんのお笑いスピリチュアルサロンができた。
私の中にあった、どこか満たされぬ想いや、点と点で繋がらなかった考察が一気に繋がって、全てが腹に落ちた感覚があった。

個展は、盟友の音楽家・小川紗綾佳さんが蒼天のために作曲してくれたコラボもあって、大変な成功を収めた。
お能の関係者の皆さんも駆けつけてくださり、京都の出資者の会長からは南青山の自社ビルの能舞台を依頼され、その製作期間を考慮し、次回の個展は3年後の春と決まった。

また、嬉しいオファーもあった。
「もののあはれ」を著した本居宣長の出身地である松坂のギャラリーから、もののあはれ展への出展を依頼されたのだ。
柳画廊はあまりいい顔をしなかったが、私の表現を理解して下さる所で発表したかった。
そして、私が日本橋でお世話になった小津和紙の本家の小津邸で、秋に蒼天を展示をして欲しいと言われ、快諾した。

松坂に車で搬入し、小津邸の下見にも行った。
そこで恐るべきご縁の元に今があることを知って、鳥肌が立った。
松坂は、豊臣秀吉の家臣、近江出身の蒲生氏郷が作った町で、近江から多くの商人たちを連れてきた。その中の一つが小津家だった。小津家の元は源氏。
我が福永家は近江出身で源氏系で佐々木氏。間違いなく先祖を辿ると同じ祖先(天皇家)に行き着く。家系図を見て、鳥肌が止まらなかった。
そして、親しみを感じていた本居宣長もまた小津家の人で、京都と江戸にも住んでいた。
日本橋でただならぬお世話になった小津和紙とのご縁も偶然ではなく、近江商人と伊勢商人が作ったと言っても過言でない日本橋で生まれた私の源泉が、ここ松坂にあった。

共晶点が終わってから、南青山の能舞台の準備。
工事の遅れで現場入りが遅れたが、下絵の制作と準備がゆっくりできた。
満員電車での通勤は厳しいと言うと駐車場を貸して下さり、車で通えることになった。
渋滞を避けながら通うこと3ヶ月半、お庭の松と対話しながら、無事に鏡板は完成した。
お披露目公演ではコシノジュンコさんなど東京のVIPの方々とも知り合うことができた。

母は、強い痺れが残ったが、デイケアのリハビリで身体的にはだいぶ改善した。
運動のみのデイサービスに変わると、だんだん認知症状が現れるようになり、私のイライラは限界を越え、週一回のショートステイを入れた。
始めは嫌がった母だが、持ち前の人懐っこさで友人もできて楽しそうだ。
週一回でも安定した精神状態になれることは、制作の為に最も必要なことだ。

<ひのもと>

2024年2/29〜3/10に予定されている四度目の個展は、日本をテーマとした。
ニッポン、ニホン、ワ、ヤマト、呼び名は色々あるが、私は「日の本(元)」が好きだ。
制作期間はあと4ヶ月ちょっと、描こうと思うものがたくさんありすぎて間に合うのかどうかわからないが、集中して描き切ろうと思う。

福永明子ホームページのProfileの中の隠しページ

http://acco-gluck.sakura.ne.jp/other

画描きのもろもろ